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時を止める少女

11月3日 晴れ。

「今日はお天気がいいから良いのが撮れるでしょうねぇ」

そんな素敵な言葉のやり取りを始めたのは母である。

初代で父と二人でstudiouchikuraを築き上げた、僕が尊敬する経営の天才、

いや、最大の努力家でもある専務取締役の母は、

僕が宮崎に戻ってから初めての車の免許を取ったり、

その赤い車で好きな場所に行ったり、とある団体の会長職もこなしたりと、

今もstudiouchikuraの専務としているのだが、この歳で今度はお仕事の写真ではなく、

「写真」を始めたのである。その写真はとても可愛らしく、少女のような目線。

会社で、ん?いないぞ、どこに行ったのだろう?と思ったら、

「ただいま。この写真見て。アヒルがピンボケしたわ。もう一回撮りに行く!」

なんと可愛い事を言うのだろうか。アヒルがピンボケしようがどうだろうが、

画面に写し出されているのは、真っ赤なイチジク、紅葉、ローアングルでの可愛い雑草、

池にピントを合わせて木の枝を影にしシルエット。

まさに「今日はお天気がいいから良いのが撮れるでしょうねぇ」と散歩をしている、

おじいちゃんや、おばあちゃんに話しかけられるはずだ。

しかも、望遠レンズ片手に一眼レフを持ち、スパスパと駆け抜けて撮っている。

時をかける少女のように。いや、それは言い過ぎだが素敵な事だ。

「お母さん、いいじゃない。この写真」母は「あんたみたいな写真でないのよ」

そう。僕みたいな写真ではない。そうであったら、

母の年齢でハマり過ぎた写真を通り越した世界になるから逆に困る。

昔から僕のお仕事の写真は勿論認めているが、

僕の作品「作家としての作品」はいい風に言われた事はない。

だが細々とした事は一切聞かずに、母に一つだけ聞いてみた。

「どう?写真て楽しいだろ?俺の気持ち少し分かるだろ?」

「いやー。なかなか、楽しいものねぇ」

変な親子関係が少し出来上がった。

なんでもそうだと思うんだけど、写真にも様々なジャンルがある。

お仕事でのクライアントが幸せになり、満足していただける写真はプロカメラマンであり、

自身の為の何かを表現、消化していく作業は「作品」の括りになる。

そもそも写真の根本的な美しさは身近なとこにある。

青空、夕焼け、海、池、動物、植物、食べ物、カフェ、子供、すべての生命体が美しく感じたら写真を撮るのはごくごく自然な行為だ。その根本的な「私事」を今、始めだした母はなかなか面白い。そこに「否定」はなく「興味」こそ大事なものはない。

で。僕は「否定」と僕は打ち込んだが。

否定から始まるものや、否定から生まれる物は無いと思っている。

思っているではなく、絶対に無い。

きちんと現代美術の知識がある状態での「指摘」ならいいが、

無知識の自分が出来ない(もしくは、したくても出来ない)過程での、

「否定」は実にみっともない。否定ほど個性や自由をハンマーでコンクリートを打ち砕くような行為は実に悲しい。あ、僕は今、それに対して「否定」ではなく「指摘」をした。

そして否定ほど有難いものはない。有名税だ。妬み、嫉妬、僻み、ヤキモチ、全て受け止めてひたすらアクセルで僕は加速していく。誰もハンマーが届かないとこまで行くつもりだ。

打たれまくって、グニャグニャになり、醜くてもニョキニョキと伸びた杭。

出過ぎた杭はもう打たれない。否定されてもビクともしない「クソ度胸」と「クソ根性」で、ハンマーが届かない突破口を見つけるつもりだ。

そして僕はマリア様のように、そのような「悲しい悲劇からの否定」の方々に、

とてつもない愛と優しさで接していく。

気持ちがぶれていた頃の作品「家族」より一枚抜粋。

懐かしいシリーズ。過去から現在に。

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