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全てにおいて写真なのだから

小説でもなく詩人でもなくポエムでもない。いや、そのようなレベルではないただの僕の日記=Letter(誰かに届ける言葉たち)は、果たして意味はあるのだろうか。そのような事を今朝、ほんの少し考えていた。基本的に僕は言葉に出来ないもの、または言葉以上に説明が強い手段として写真作品をしている。だけど言葉があまりに出すぎるともう意味もないように感じてきた。毎日がそうだけど、特にここ最近は写真を常に撮っている。いや、今までの僕のシリーズを完結するために撮っている。それは一つの分岐点でもあるだろう。  35歳の写真家は若手と言われることが多いのだけど、僕はもう若手とは自分では思っていない。若手という逃げ言葉から立ち向かい、自分の原点に今一度、戻り作品を撮っている。逃げるのだけは昔から嫌いなタイプだと思う。例えば早稲田大学を卒業して「早稲田行っても関係ないよ」という人間と、早稲田大学に行ってなくて「早稲田なんて関係ないぜ」さて、どっちがクールだろうか。また、コンペに例えても「著名なコンペに応募してもねぇ。。。」なのか、挑戦し受賞して「賞とっても、そんなに意味ないよ。基本、写真て素晴らしいよね」さて、どっちがクールだろうか。僕の意思は仲良しに合わせるものではなく自己標準に合わせていく。その行為こそが独自性ではないのだろうか。独自性から人との出会いや、繋がりで新しい可能性、自身が開花していくのであれば、その独自性=作品を磨くつもりだ。今まで以上に自分をみつめ、逃げることなく作品を撮る。そして得体の知れない何かに僕は立ち向かっていくつもりだ。 腑抜けた作家にはなるつもりもないし、なったつもりもない。それは余りにも濁り多いフワフワとした作家が馬鹿みたいに増えてきては一瞬で消えていく。政治家のようなコネ繰り回したゴマスリ写真(活動も含め)。頭突いてもゴンゴンではなくコンコンとしか音の出ない中身のない写真。言葉だけが達者で言葉と写真が的外れの写真。また自分のアプローチにしても若さゆえなのか気取ってしまい変にクールにしてしまう。例えば自分で自分のことを無名と言ったら楽なものだ。既にそこで「傷つくのが怖すぎるので、どうか優しくしてください」と周りに言っているようなものだ。そのアプローチには覚悟も何も感じない。 そんなスタイルを見かけるととても退屈になってしまうし一緒に居たくなくなる。写真家はただひたすらに馬鹿であるべきだ。写真家が写真家である以上、ましてや若手写真家と言われているのなら、写真の限界を知るための